星に願いを

妄想とエゴと素直な気持ち。

2つの運命

 

たぶん、わたしが今日も生きていられるのは "少しだけ" 運がいいからだ。

 

 

「今日は運が悪かったね…。」

「これは運命の出会いかも……!」

 

誰しもが一度は「運」や「運命」といった言葉を日常で使ったことがあるんじゃないでしょうか。もちろん私もその一人。

 

個人的な話ですが、今年は就職活動をしていたので、例年以上にこの言葉に触れる機会があった気がします。

 

「就活なんて運だから!落ちたらこことは縁がなかったんだって切り替えた方がいい!」

 

(いやいやいや、そんなもので将来決まっちゃうのかよ。たまったもんじゃないな…。)

 

「今年ってコロナで就活大変でしょ?運が悪かったね……。」

 

(はい、大変です。でも、そんなこと嘆いててもコロナは無くなりませんよね?!)

 

なんて、OB•OGの方や人事の方のお言葉に心の中でツッコんでました。(これもちゃんと思いやりと優しさだって分かってますよ。ありがとうございます。)

 

それでも、自分の中で気持ちの整理をするのに「運」や「運命」を理由にすることは都合が良かったんですよね。無理矢理にでも納得し、前に進むことの方が大切だと、当時の私は考えていました。

 

(あ、就活ですが、やっぱり運やご縁ってあるんだなぁっと思いました。ですが、それだけでもないなと。就活を控えてる皆様は不安になりすぎないでくださいね。経験者より)

 

(話を戻します)

 

要するに、「運」や「運命」ってすごく便利な言葉だと思うんですよ。 

特にマイナスな出来事に巡り合ったとき。自分の中で受け入れて前に進むために、ひとは何かしらの理由や原因を見つけ、気持ちを整理する。中には、そんなものを理由にするべきではないと思う人もいるでしょう。それでも、本人が少しでも生きやすくなるのなら「運が悪かった」や「それが運命だったんだ」と自分を納得させることは、私は悪いことではないと思うんです。

 

だけど、春馬のことだけは、

 

「それが運命だったんだ…」

 

なんてそんな単純な言葉で片付けちゃいけないと強く、強く思うんです。なぜならそれは、

 

「変えられる運命」

 

だったと思うから。

もしかすると、そうやって無理矢理にでも納得した方が生きやすいのかもしれない。前を向けるのかもしれない。だけどやっぱり、なんとか出来たんじゃないかなって。割り切れないんですよ。どうしても。

あの日 "何かがほんの少しでも違えば…" と思わずにはいられない。例えば、あの日の東京の空が雲のない澄んだ青色だったら。運勢ランキングで牡羊座が1位だったら。そんな小さなことでいい。何か良いことあるかもなって、あと1日だけ頑張ってみるかって。

ましてや、今年の梅雨明けがもっと早ければ。コロナなんて流行ってなければ。こんなことにならなかったんじゃないか。現実を変えられたんじゃないかって。

 

そんなたらればを考えてしまう。永遠と。

 

すごく便利だと思っていた言葉は、本当に苦しいとき、全然助けてくれない。ちっとも生きやすくしてくれない。役に立たない。

 

でも、思うんですよ。

ときには前に進むことを辞めてもいいのかなって。しぬほど苦しんで、悩んで、絶望して、涙を流して。 "立ってることで精一杯" な今の自分でもいいのかもしれない。他人に迷惑さえかけなければ、認めなくても受け入れなくてもいいのかもしれない。

 

わたしは自分に甘すぎるんでしょうか。

こんなとき、春馬ならどう向き合うのかな。

 

あの日から春馬のことを考えれば考えるほど、新たな一面を知れば知るほど、やっぱり私は春馬と出逢うべくして出逢い、好きになるべくして好きになったんだと何度も何度も思うんですよね。これこそが「運命」なんじゃないかなぁ

 

私にとって、絶対に、

 

「変えたくない運命」。

 

 

間違いなく、春馬と巡り合い、恋をした私の人生は "すごく" 運がいい。

 

 

 

ねぇ、春馬。

もうかくれんぼはやめにしよう。

私の負けだよ、完敗だよ。

だかさ、もう出てきてよ……

 

3ヶ月って、隠れすぎだよ。